― 定期演奏会の記録 ―
プログラム・曲目紹介
- キリエ Kyrie
- グロリア Gloria
- クレド Credo
- サンクトゥス Sanctus
- ベネディクトゥス Benedictus
- アニュス デイ AgnusDei
モーツァルトとベートーヴェンのハ長調ミサ曲、その背景
ロマン・ロラン(1800-1944)は小説「ジャン・クリストフ」の中で、主人公がベートーヴェンに共感をいだく多くの場面を著述しているが、音楽研究?「モーツァルト」では当時の音楽家の創作における人間像を興味深く述べている。
「粘り強く仕事をした」バッハ。彼は友人達によくこう言っていた。「私はやむを得ず仕事をしたのだ。誰でも私ぐらいに仕事をすれば、私ぐらいに成功するだろう」
ベートーヴェンの音楽はデーモンとの一騎打ちから生まれたのだ。彼はスケッチし、瞑想し、削除し、訂正し、付け加え、そして
出来あがってからもまた書きなおし、過去に完成していたソナタの作品にさえも新たに音符を付け加えたりしている。
モーツァルトはそんな苦労を全く知らない。彼は自分が思うがままである。出来る事しか考えない。彼の作品は彼の生命の移り香のようなものである。
本日演奏するモーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の<戴冠ミサ・ハ長調 KV317>は彼が23歳の時、1779年3月23日ザルツブルクで作曲された。35歳という短い生涯のうち作曲数は626曲であったが、ミサ曲に関しては19曲。そのうち17曲がザルツブルク時代に完成した。モーツァルトはザルツブルクの大司教と決裂し、ウィーン定住を決意し、その後フリーの音楽家としての生涯をおくるが、ウィーン時代のミサ曲は「レクイエムニ短調」と他のハ長調の一曲のみであることが興味をひく。
ザルツブルク時代最後ともいえる3年間で私たちが現在特に親しんでいる作品に注目すると<フルートとハープのための協奏曲・ハ長調><パリ交響曲・ニ長調><戴冠ミサ・ハ長調><バイオリンとヴィオラのための協奏交響曲・変ホ長調><ミサ・ソレムニス・ハ長調>など、永遠に輝くきら星の誕生時期であったことに気づく。
ベートーヴェン(Ludwig Van Beethoven 1770-1827)はモーツァルト生誕より14年後にボンで生まれた。それから28年後の1907年3月<ハ長調(op.86)>が作曲された。ハイドンの保護者ニコラウス・エステルハージ侯爵の依頼による作品だが、当時の貴族社会に依存する事に反発思想をもつベートーヴェンでも、経済的には勝てなかったと言われている。『ハイリゲンシュタットの遺書』によれば32歳頃から音楽家にとって致命的な難聴かベートーヴェンを襲ったという。その様な状況下で、36歳で<弦楽四重奏・ラブモフスキー><交響曲第四番・変ロ長調><ヴァイオリン協奏曲・ニ長調>、37歳で<コリオーラン序曲・ハ短調><ミサ・ハ長調>、38歳<交響曲第五番・ハ短調・運命><交響曲第六番・ヘ長調・田園><合唱幻想曲・ハ短調>、39歳で<ピアノ協奏曲第五番・皇帝>などの超傑作を次々と生み出し、驚くべき創作意欲であったことがうかがえる。難聴という絶望的な運命をも強靭な精神力で乗り越えている。ベートーヴェンのミサ曲に関しては、その後52歳(1822)の作品<ミサ・ソレムニス・ニ短調>のみであり、既に聴覚の衰えは激しく会話も全く不自由となり、筆談帳やラッパのような補聴器を繁く使っていた。ドイツ啓蒙主義的思想の風潮盛んなボンで育ち、フランス革命の旗印―自由、平等、友愛の精神に共鳴したベートーヴェンの反骨精神が不屈の創作魂を鼓吹させた事であろう。
本日演奏する2つのハ長調ミサ曲は、フランス革命勃発前の貴族社会支配のもとで生きた神童モーツァルト23歳の作品と、革命後の激動の時代に生きた楽聖ベートーヴェン37歳の作品であるが、ローマ・カトリック教会で神を賛美し、罪の許しを願い、恩寵を祈る儀式で歌う曲であることは共通している。