― 定期演奏会の記録 ―
プログラム・曲目紹介
- 第1楽章 Allegro Vivace
- 第2楽章 Andante Cantabille
- 第3楽章 Minuet Allegretto
- 第4楽章 Molto Allegro
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Kyrie あわれみの賛歌
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Gloria 栄光の賛歌
- Gloria in excelsis Deo いと高さところでは
- Laudamus te われら主をたたえ
- Gratias 主の栄光の大いなるがために
- Domine 主なる天主
- Qui tollis 世の罪を除き給う
- Quoniam そは主イエス・キリスト
- Jese Christe イエス・キリスト
- Cum Sancto Spiritu 聖霊とともに
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Credo 信仰宣言
- Credo in unum Deum われは唯一の天主を信ず
- Et incarnatus est 人体をうけて人となり
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Sanctus 聖なるかな
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Benedictus 幸いなるかな
交響曲第41番「ジュピター」について
この曲は、1788年8月10日に32歳のモーツァルトがたった2週間で書き上げた最後で最大の交響曲であり、神々の王「ジュピター」の名にふさわしいあらゆる音楽の頂点をなすものである。しかし、三大交響曲といわれるこの41番ハ長調、同年の作品39番変ホ長調、40番ト短調の演奏会が生前に開かれた形跡はなく、当時の深刻な経済的困窮を救うものとならないばかりか、おそらく自分でこれらの曲を聴いたこともない。その創作の動機は、モーツァルト自身の強い内的欲求以外にはないと思われ、そこでジュピターは近代的な意味での芸術作品のさきがけをなすものとみられる。
アレグロ・ヴィヴァーチェ、アンダンテ・カンタービレ、メヌエット・アレグレット、モルト・アレグロの4楽章から構成されるが、とくにこの曲を音楽史上不動のものとしているのは、バロックと古典派を渾然一体に昇華したフーガ風の最終楽章であり、その主題は聴く者を宇宙の彼方へと導いて行く。(大島 厚)
「ハ短調ミサ」の背景
――僕は余りにも長く我慢を強いられてきました。ついに堪忍袋の尾も切れました。僕は、もはやザルツブルクで宮仕えする不幸な人間ではありません。――1781年5月、故郷ザルツブルクで、大司教コロレードの雇われ音楽家として暮らしていたモーツァルトは、ウィーン滞在中に司教と大げんかをする。故郷に帰らずそのままウィーンに残り、孤独な音楽家として活動をしてゆ<ことになる。司教とけんか別れした後の彼の下宿先は、3年前にマンハイムで恋をし、やがて失恋したアロイジア・ヴェーバーの母親のものだった。アロイジアはウィーンの宮廷歌手として大出世していた。ヴェーバー家にはまだ3人の娘が残っており、モーツァルトはアロイジアの妹のコンスタンツェと恋に陥るが、その噂はすぐに故郷の父、レオポルドに知れわたってしまう。父は、ヴェーバー家が音楽や興行の世界で、下層階級であったことを知っており、そのような性質の悪さを見抜いていた。彼は息子に、直ちに下宿を引き払い、ヴェーバー家との関係を絶つ事を命じる。彼は転居はするものの、ヴェーバー家に毎日のように入り浸り、コンスタンツェとの愛は深まるばかりであった。ついに、父の許しを得ぬまま、1782年8月4日、19歳のコンスタンツェと結婚する。
彼は結婚する前から、その気持ちをそのままミサに書き上げ、神に捧げようと決意していた。こうして書かれた曲が、『ミサ曲ハ短調』である。彼はそれを郷里の父や姉ナンネルに聞かせることによって、自分の心を形にして表そうとし、その中で、アマチュアであったが歌い手の妻の独唱を入れることにより、音楽的な面でも妻を理解してもらおうと考えたのであろう。それにはコンスタンツェにこの曲のソプラノIを見事に歌ってもらわなくてはならない。(そのために、『コンスタンツェ用のソルフェージュ KV393』までも作曲している。)モーツァルトは、妻を嫌う父と姉の心を少しでも和らげようと里帰りしたが、結果は溝を広げただけにすぎず、あきらめた彼は、未完成のままのこの曲を結婚後1年以上経った1783年10月25(26)日、ザルツブルクの聖ペテロ教会で演奏した。
この曲は、モーツァルトの生涯15曲にのぼるミサ曲の中でも、未完成ながら大曲である。完成しているのは「キリエ」「グローリア」「サンクトゥス」「ベネディクトゥス」で、「クレド」は前半のみが作曲され、「アニュス・デイ」は作曲されていない。曲は、ソプラノI・II、テノール、バスの独唱、混声4部合唱の編成である。合唱は途中、ソプラノが2部に分かれる5部合唱、全体が2つに分かれる2重合唱(8部合唱)の編成をとる。今日は、新モーツァルト全集に基づき演奏する。